或るトポロジストの回想

小さなコトを大きくカク

僕らの形なき夏学期への追悼

 

8月になった。僕にとって最後となる大学生活の前半戦は、いつの間にか終わっていた。

 

 

 

今期課せられたレポート。そのなかのラストひとつをきちんと期日通り提出したとき、僕の頭の中を通り抜けたのは達成感でもなんでもなく、単に夏学期が終了したという事実だけであった。

 

 

弊学ではコロナ禍の初期段階から授業の完全オンライン化が計画され、運用段階に少々の問題が生じたものの特にこれといった大問題が起こることもなく、滞りなく授業の機会が学生に提供された(学部生のオンライン試験なるものにはいくつか問題が生じたらしいが)。

 

これも一重に大学スタッフ(教員や事務の方)の多大な努力と試行錯誤の賜物であり、学生になんとしてでも教育の機会を提供するという大学側の強い信念のようなものが感じ取れた。本当に大学側の努力には頭が上がらない。

 

おかげさまで、弊学の学生たちは各自の自宅(人によっては実家の自室)という安全な空間から大学の教育リソースにアクセスすることができた。コロナに感染したという弊学構成員はその後ほぼ0である(少なくとも、新学期以降でクラスターが発生したというような現象は確認されていない)。

 

それでも…

 

 

オンラインに移行したことによるメリットは、上に挙げたような学生の安全と教育機会の確保の両立が達成されたことである。

一方で、当初から懸念されていたデメリットはどうであっただろうか。

僕らの失われた学生生活はどうだったであろうか。

 

 

この半期の1日の生活を簡単に振り返ってみると、自分の場合、まず遅めの起床から適当に朝食をとり寝ぼけ眼でパソコンを開く。好きな授業を受ける。場合によってカメラマイク共にオフモードで良いので、半ば教授の声をBGMがわりに内職をする。不思議と眠くはならない。一つの授業が終わると、そのまま別の学部の授業に飛び、また別の授業を受け…、と続けているうちにいつの間にか夕方になっているのだ。まさに徒然なるままに授業を受けている。

移動に関する一切の時空間の制約からフリーになっているため、講義を試聴するという点からは「新しい可能性が得られた」と言える。実際、僕は例年だったら(地理的都合で)受けることのできなかった講義を受けることができている。それ以前に通学・移動時間を他に振ることができたのは非常によかった。資料もPDFファイルですぐに手に入るのでレジュメをもらいに毎回授業に出なければならないという変な危機感も覚えずにすんだ。

 

しかし一方で、クラスメイトやよくわからん他人と話す機会は完全に失われてしまった。1日の最後の授業が終われば教室に残った友達と駄弁るあの時間も、なんとなくそのままの流れから街に繰り出し飲み屋で酒を酌み交わす楽しみも、日によっては部活サークルに顔を出し、活動に精を出すあの時間も、すべてなくなってしまった。

 

学生の安全を第一に考えた結果、弊学はキャンパスへの出入りを基本的に禁止ないし回避することを学生に要請し、一切の課外活動が禁止されてしまった。

「大学生は社会が許されている活動よりもはるかに制限された中で活動をしている・我慢を強いられている」という主張が各種SNSなどで散見されているが、弊学はおそらくその中でもトップクラスに「慎重な」コロナ対応体制を敷いている大学である。

 

その対応の意義も十分に理解できる。正直言って僕は大学側の対応は正解であると思っている。逆に言えば世間のコロナ対応は緩いというか、必要な感染対策を十分に行えていないと考えている。だから大学側への文句は一つもない。むしろ前述のように、感謝している。

 

ただ、それでもやはり失われたものがあまりに大きすぎると思う。大学は学問を学ぶ場であることに疑いはないし、学生の本文は勉強であると考えている。だが一方で自分の学部生活を振り返ってみても、部活などの課外活動で得られた経験や価値観のブラッシュアップといった成長は勉強だけしていても得られるものではないと思っている。

 

現に、最後のレポート課題を提出した後の僕に残ったものは、アカデミックな知識とパソコンに関するスキルだけだ。

 

電源を落としたノートパソコンの画面に反射しているのは、曇りきった僕の表情だけであった。

 

 

制限がある中でも言い訳せずにやれるだけのことをやる、というのは素晴らしい考えだ。逆境を跳ね返す力強いマインドセットだ。こんな機会だからこそ、今に得られたメリットを最大限に活用して後悔のない日々を過ごすことが大事だ。

しかしこれらは正論でしか無かった。

僕はこんな機会だからこそと思って今期は勉強(と、あとは少し就活)に全振りをした。朝から日が暮れるまで勉強をした。でも得られたものはやはり知識だけで、得られるもが得られたというだけでは物足りなくて、やはり失いたく無かった生活が失われてしまったこと、そのデメリットの方が僕にとって心残りでしか無かった。

 

 

やるせないこの思いと失われた僕らの生活に、あるはずだった未来に、合掌をしよう。

 

 

姿を見せることなく過ぎ去った学生生活の日々への追悼をしよう。この気持ちを過去のものとして、受け止めるために。